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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第七十一想】
2006.02.01

極楽は人の心の中に

 受け売りで恐縮ですが、それでもどうしてもお伝えしたい話があります。京セラの創業者である稲盛和夫さんが「日経ビジネス」誌上にこんな事を書かれていました。 それは臨済宗妙心寺派管長・西片擔雪(たんせつ)老師が説かれた地獄・極楽の話でした。

 

 ある時、若い雲水が「地獄、極楽というものは本当にあるのでしょうか」と西片老師に尋ねました。老師は「うむ、確かにある」と答え、次のようなことを話されました。

 

 実は、地獄も極楽もちっとも変わらない。少し見ただけでは同じような場所なのだ。けれども、そこに住む人たちの心が違う。

 

 例えば釜揚げうどんはとても美味しい。地獄にも極楽にもそれはそれは大きな釜があって、お湯がぐつぐつと煮立っている。うどんを湯がいているその大きな鍋の周りを、腹をすかした者達が十人も二十人も取り巻いている。手にはつけ汁のお椀と二㍍もある長い箸を持っている。ここから先が違うのだ。

 

 地獄では、皆が我先に争って箸を突っ込む。何とかうどんを掴むことはできるのだけれども、箸が二㍍もあるのだから手元のつけ汁のお椀にまで持ってくることが出来ないし、食べることも出来ない。

 

 そうこうするうちに、向こう側にいる者が箸先に引っ掛かっているうどんを横取りしようとするので、「それは俺のもんだぞ、食うな」と怒り、相手を箸の先で叩き、突く。すると「何を、この野郎」と相手も突き返してくる。

 

 そんなことがそこらじゅうで始まって、うどんは鍋から飛び散ってしまって、誰も一本も食べられずに、殴り合いの喧嘩が始まってしまう。もう阿鼻叫喚の巷と化してしまうのだ。それが地獄なのである。

 

 では、極楽というのはどうなっているのか。極楽にいる者は皆、利他の心、他人を思いやる美しい心を持っている。二㍍の箸でうどんを掴んだら、釜の向こう側の人のつけ汁につけて、「さあ、あなたからお先にどうぞ」と言って食べさせてあげる。すると今度は、向こう側の人が同じように自分に食べさせてくれる。一本たりともうどんを無駄にすることなく、みんながお腹いっぱいに食べられる。地獄と極楽は確かにある。人の心のありさまがそれらを作り出すのだよと、老師は若い雲水に話して聞かせたということでした。

 

 平成十五年五月号のこの欄で、児童館みんなのひろば館長(当時)君島靜子先生が書かれた「先生のお弁当」という文章を紹介させていただいたことがあります。昭和二十一年に花岡小学校に入学した方々の同級会のことでした。

 

 「ふと見ると、大男のTさんがボロボロ泣いている。(中略)二年生の時の担任だったS先生の膝元にしゃがみ込んで『ああ、もうたまんねえ。きょうはもうだめだ・・・』といいながら手当たり次第におしぼりを掴んで涙をぬぐっている。Tさんは思い出したのだ。お弁当を持ってこられず、校庭で一人遊んでいたTさんを、S先生が教室に呼び戻して自分のお弁当を食べさせてくれたことを。」

 

 西片擔雪老師が話された極楽の姿に、なぜか私は君島先生の文章を思い出していました。生徒と弁当を分け合う教師の姿は、極楽を作り出す人の心が世代から世代へと受け継がれていく姿そのものだと思うのです。

 

 子ども達の安心・安全が脅かされている今、たくさんの町民の皆様がこの町の子ども達を守ろうと力を貸してくださっています。防犯協会、PTAの皆さん。それぞれの地域の高齢者の方々や愛犬家の皆さんは散歩の時間を子ども達の下校に合わせてくださったりしています。心から感謝申し上げます。そして皆様のその心は、必ずや子ども達に受け継がれ、また次の世代へとバトンタッチされていくことを信じています。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
掲載されている記事・写真などコンテンツの無断転載はご遠慮下さい。
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