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この国を滅ぼしたくない

メッセージ

高橋かつのりからのごあいさつ

『目指すべき日本の将来像と国政への提言』

 「ローマ帝国はパンとサーカスによって滅びた」と言われる。労働を忘れ、消費と娯楽が人々の生きる目的となった結果、滅びたのである。そして滅亡への過程において、為政者は其のことに何の警鐘も発しなかった。為政者の保身のために、帝国の未来を考えずに民衆の要求に唯唯応えるという安易な方法に走ったことが、帝国の滅亡を招いたのである。ローマ帝国興亡の歴史に今の日本の姿を重ね合わせてしまうのは自分だけではないと思う。

 繁栄を導いた制度設計が時の経過と共に陳腐化し、しかしこれまでの既得権を持つ組織や階層はその制度を変えようとはせず、いつしか物も心も疲弊し崩れ去ってしまう。このことを日本に当てはめれば、戦後、急速に日本を富ませるには権限も財源も中央に集中しなければならなかった制度設計は正しい。経済が拡大し、人口が増える右肩上がりの時代の制度設計として、日本の繁栄という大きな成果を上げたことは評価しなければならない。しかし、もう情況は変わった。これまでのように、増え続ける富をどう分配するかという分配型の統治は不可能である。いかに持続可能な社会を作っていくか、そのためにこれまでの仕組みをどう変えていけばよいのか。このことこそが政治家の喫緊の課題であることは言うまでもないが、仕組みを論ずることと同時に忘れてならないことは、戦後の教育によって醸成された「今さえよければ、自分さえよければ」という国民全般を覆う意識を変えることであることを私は痛感している。

 私は高根沢町という小さな自治体の首長として十五年間、「手間暇かけて」を合言葉に掲げて町づくりに取り組んできた。この合言葉には、どこまでも便利であることが善であり、物が豊富で手間なし手間いらずこそが幸福であるとする今の社会へのアンチテーゼを含んでいる。自国の歴史を忘れ、理想を失い、すべての価値をお金や物に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びるのではないかという危機感の表れでもある。私たちが享受している豊かさは、父母がひもじさに耐え、自分が食べなくても子供たちに食べさせ、物が無ければ無いなりに手間暇かける知恵があったからこそ得られたものなのだ。確かに物は無く便利でもなかったが、それが不幸であったかと問われれば堂々と幸せだったと答えることができる。その理由は何なのか。私は「手間暇かけて」という言葉の中にこそ、人間の幸福の本質を理解する鍵があると考えたからこそこの言葉を町の合言葉としたのであり、このことは東日本大震災と原発事故を経験して、ゆるぎない確信となったことは言うまでもない。

 「団体や町民ができることはしてください。現役世代は朝から晩まで真っ黒くなって働いていただき、その人達のためには税金は使いません。われわれ働き盛りの世代は働くだけで見返りは求めないのです。痛みも伴いますが、自治本来の姿に戻ること、これしか高根沢町が生き残る道は無いのです。」これは私が町民に一貫して訴えてきた言葉である。地方自治体は国主導という長き太平の眠りから覚めて、血のにじむような行財政改革の中で本来の自治を考え始めている。そして痛みを伴う改革にもかかわらず、町民はそのことに耐えてくださっている。日本人が本来持っていた「利他の精神」「惻隠の情」は、まだ意識の根底に残っていた。だからこそ、その精神を取戻すことから始めなければならないと思う。そして時代に合わせた制度設計の変更も必須である。なぜならば、制度疲労を起こし既得権を守るだけの制度のままでは、正義や公正が著しく損なわれ、そうなれば真面目に働くことが馬鹿らしくなる。そして人々がそれぞれの持ち場を放棄するようになり、この国に本当の危機がやってくるからである。

 20世紀の成長至上主義の弊害が目に見える形で現れ、二十一世紀型の「脱成長社会」への転換が大きな時代のテーマになっている今この時、「地球は人類の必要を満たすには十分だが、あくどい欲望を満たすには小さすぎる」と言ったガンジーの言葉を思い出さずにはいられない。総選挙で叫ばれた成長が、はたして「人間のための成長」なのか「成長のための成長」なのか。

 国の将来の形が見えない大転換期の中で、変えるべきものを変える勇気と、変えてはいけないものを守る冷静さ、そしてこの二つの違いを見分ける知恵をもって、祖国日本はどのような国であるべきなのか。しっかりとした人間観・歴史観を前提に、「国民を乗せるための甘い言葉」よりも、「明日のこの国の物語」を誠実な言葉で語り続けたいと思う。

高橋かつのり

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