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高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第五十九想】
2004.09.01

 「人間の死亡率は一〇〇%」だという。確かにその通り。早かれ遅かれ、いずれは死ぬ。うまいことを言うもんだなあとうなずきながらこの言葉を読んだのは、新聞だったか本だったか記憶は定かでない。

 

 人間は懸命に生きる。生き続けるために努力をする。しかしどう努力したところでその終点は死である。この世に生れ落ちたときから、その生は死という一点に向かって始まるのだ。この避けられない事実を意識するかしないか。意識するとしてもどう受け止めるかによって人生は変わってくる。作家の司馬遼太郎はある対談で「一ヶ月に十三~十四回は死ぬことを考えています」と言っていた。

 

 司馬遼太郎を真似したわけではないが、ここのところ毎日死ぬということを考えている。齢四十七を目前にして、生まれてからの時間よりも死を迎えるまでの時間のほうが確実に近くなったこともあるのだろう。

 

 「立って半畳、寝て一畳。天下取っても四畳半。」死ぬことを考えると本当の自分が見えてくる。人から評価されたいとか、お金とか地位とか、そんなものは死を前にすれば無力だ。人は死ぬ直前、生まれてからのすべての記憶が頭の中を駆け巡るという。誰も死んだ人からその話しを聞いたことはないので真偽の程はわからないが、もしそれが本当ならば、自分は死の直前に頭の中を駆け巡るであろう人生に納得して死にたいと思う。地位や名誉やお金のために、信念や正義感を曲げてまで仕事をする必要はない。自分自身に死をあてはめてみると、それは死を考えているのだがいつの間にか生きることにつながっている。良く死ぬためには良く生きなければならないし、そうだとするとまだまだ自分は良く死ぬことができないようだ。

 

 話は変わるが、今夏の猛暑の中で、東京、名古屋、大阪、福岡などでの「打ち水大作戦」の記事が新聞に出ていた。水道の水をまくのではなく、風呂の残り湯や雨水を使う。朝日新聞によれば、東京の小学校では、一〇〇人の子供たちが真昼の校庭に水をまいた。専門家の計測では、約五〇度あった地表の温度が四〇度まで下がったそうだ。山の手の商店街では打ち水のあと、一.五度涼しくなっていた。地球全体の平均気温はこの百年で〇.七度高くなり、特に巨大都市東京は三度も高くなっている。暑いからかけるエアコンの排熱が温度を上げ、更なるエアコンの使用がまた温度を上げる。ヒートアイランド現象の呪縛である。

 

 「打ち水大作戦」などという単発イベントこそやってはいないが、高根沢町だって負けてはいない。日本経済新聞から引用するが、農水省の試算によると、関東の八月の平均気温をもとに計算した場合、水田十㌃(つまり一反、三百坪、千㎡)当り一日に六.一㌧の水が蒸発し、その際に気化熱として三六一万七三〇〇キロカロリーの熱量が奪われるそうである。冷房能力に換算すると六~九畳用の家庭用エアコン八〇台に相当する。町の水田面積が本年度は二四九〇㌶だから、エアコン一九九万二〇〇〇台ということになる。

 

 田んぼよありがとう。あんた達が無かったらこの町はもっと暑苦しくて、町民はエアコンの電気代が余計にかかったことだろう。電気を余計に使えば電気を生むためのエネルギーがまた余計にかかって、地球の温暖化が進んでいく。これからはご飯を食べるときに、田んぼがくれる涼しい風にも感謝して食べなければなんねえ、と思う。

 

 人間はいろいろな命を食物としていただいている。米や野菜や肉や、それらの命が死ぬことによって人間が生きることができる。死をいただいて生きる。だとすれば良く生きなければ申し訳が無い。

 

 またまた視点が死ぬことにいってしまった。このところの私の思考パターンだ。でも、常に死を考えることが必要だという思いは、最近「確信」に変わってきている。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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