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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第五十六想】
2004.06.01

 世の中に人生訓と呼ばれるものは数々あります。栃木県が県政運営の基本方針としている「分度推譲」という言葉も、二宮尊徳翁の残された人生訓のひとつでしょう。私の机の上にある相田みつを氏のカレンダーには、五月の言葉として「自分のうしろ姿は自分じゃみえねんだなあ」と、未熟な町長の一番痛いところが分かっているかのように、毎日、私を鞭打ちます。

 

 先日、宝積寺のSさんからメールをいただきました。そこには「S家の掟」というものが書いてありました。思わず、なるほど!と唸り、目から鱗が落ちました。ご紹介したいと思います。

「人間として、最も恥ずかしいことは、バイキングで食事を残すことだ」

これは、多くの示唆を含みます。

 

1、〈感謝の心〉食材となった動植物に、農家の方に、調理してくれた方に。

2、〈分かち合う心〉各自が必要な分だけとれば、より多くの人が満たされます。

3、〈合理性や知性を尊ぶ精神〉食べ放題なのだから、残しても、全くかまわないというのは、憂うべき思考と考えます。

 そしてこんな説明もありました。「食事を残さない、というのは決して豚になることを薦めているわけではなく、実際、外食で残すことはありますが『バイキング』で残すことがいけないのであり、自分の選択に『始末がつけられるかどうか』試されているわけです。」

 

 私はかつてSさんとバイキングに同席したことがありました。その時の自分が、さてどうであったのかと考えると、ひと筋の冷や汗が背中を流れていくのを感じました。そして、初対面の人が友人になれるかどうか、果ては将来の子供たちの伴侶の人となりも、もしかするとバイキングを共に食べれば分かるのではないかなどと、自分のことはすっかり棚に上げて納得してしまっている始末です。

 

 「たしなみ」という言葉がありますが、「S家の掟」は、バイキングという権利濫用自由状態における人間の「たしなみ」を量る試験紙のようです。

 

 「たしなみ」、懐かしい言葉です。懐かしいと感じるのは、私がこの言葉にいかに疎遠になっているかの証でもあります。「たしなみ」で思い出すのは、約二十年前に日本エッセイストクラブ賞を受賞した、宇都宮在住である志賀かう子さんの「祖母、わたしの明治」という本です。幼くして母を亡くされた志賀さんは、岩手の士族の娘で女医であった祖母ミエさんに育てられました。ミエさんは志賀さんを厳しく育てました。母から娘へと伝えるべき「たしなみ」を、まるで熱い火箸を押し当てるかのように志賀さんの心と身体に覚えさせていく様が活写されていました。「髪を乱してはなりませぬ。裾を乱してはなりませぬ。」毎日毎日が「なりませぬ」の連続でした。お辞儀をするのなら相手の心に残るようなお辞儀をしなければなりませぬ。米粒を残してはなりませぬ。鼻紙で鼻をかむときは、二つ折りにしてかんだら四つ折にして懐にしまい、きれいなところでまた鼻をかみ、最後まで使い切ってから天日で干してカマドの焚き付けにしました。ひと様に不快な思いをさせないための努力と自分を生かしてくれている物への限りない感謝こそが「たしなみ」であったのです。

 

 ともすると、これまでの「政治」は、バイキングという権利濫用自由状態の中で、自分の皿にどれだけの料理を山盛りにすることが出来るか、という競争であったと思います。しかし、それを続けていたら、バイキング自体を続けることが出来ないところまで来てしまっていることを町民の皆様はご存知だと思います。

 

 整理整頓の不得手な私の机の書類の下に、相田みつを氏の言葉を見つけました。

 

 「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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