• フォントサイズ
  • 中
  • 大
この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第七十七想】
2006.12.01

やる気と幸運の連鎖

 「無いものねだりから、あるもの探しへ」前回のこの欄でそんな言葉を書きました。この言葉をしみじみと本当だなあと感じたのは、紆余曲折を経ながらも何とか工事に着工することができ、来秋の完成を目指している宝積寺駅東口のことを思い返したからでした。

 

 もともと駅の東側には大谷石でできた石蔵が三棟建っていました。そのうちの二棟は約70年前に手掘りの大谷石を使って建てられたものでした。当初の計画ではそれらの石蔵は解体撤去されることになっていました。しかし、長い間、町の歴史と密接につながっていた建物を壊すのはしのびないと私は思いました。たたずむ石蔵を見ていると、何を語らずとも町の歴史を語っているようでした。昔、収穫された米を鉄道輸送するため、一時的に保管していたのがその蔵でした。一年の大仕事を閉じるための最終章の舞台であったわけです。一年の苦労の結晶であるお金を手にして、厳しい冬を前に子や孫に新しい足袋を買ったら喜ぶだろう。妻や祖父母にも正月用に着物の一つでも。そんな思いがこの石蔵の周りには満ちていたことでしょう。戦争中は、万歳の声に送られて宝積寺駅から出征する兵隊さんを見送り、戦後は無事復員してきた兵隊さんと家族が涙を流して抱き合う姿を見たに違いありません。私にとってこれら石蔵は「かけがえのない」物に感じられたのでした。

 

 幸い、何らかの形で石蔵を残すという計画変更案は議会の方々にもご理解をいただくことができました。さらに、商工会の皆様は、賛同のみならず、石蔵が人々にどう受け止められているのか、そしてどんな利用方法があるのかを探るための実験として「ちょっ蔵フェスタ」なるものを定期開催してくださるまでに至りました。

 

 幸運は続きました。石蔵を残すといっても、駅東口広場との関係でそのままではどうしても使い勝手が悪い。さてどうしたらよいものかと方々に相談をしていた時に、隈研吾という世界的な建築家(慶応大学教授でもある)が突然訪ねてこられました。この方、栃木県内では「馬頭町広重美術館」や「作新学院大学」、那須町「ストーンプラザ」等を設計しました。少し前まで放映されていた吉永小百合さんの出ているシャープ液晶テレビのCMをご存知でしょうか。あのCMに出てくる竹でできた家、あれも隈研吾氏の設計です。日本建築学会賞や林野庁長官賞、村野藤吾賞等受賞歴はとても書ききれませんので省きますが、「かけがえのない」物を残したいという思いに共感してくださったのです。

 

 一足先に駅東口に完成した商工会館の設計コンペは、駅東口全体の意匠を統一しなければという考えから、商工会の依頼で隈研吾氏が審査委員長を務められました。この商工会館は昨年の「マロニエ建築賞」を受賞しています。そしてその後完成した「ちょっ蔵ホール」と「多目的展示場」には取材や撮影依頼が次々に来ています。「GA JAPAN」「新建築」といった建築専門誌はもちろん、車のポルシェ、アルファロメオ、テレビ朝日映像、シンコーミュージック、ファッション雑誌、これもとても書ききれませんので省きます。

 

 駅東口にはもう一つワクワクするものがあります。歩行スペースには「たんたん田んぼの高根沢」のモミガラを使った「モミガラシート」を敷く予定です。モミガラにゴムチップを混ぜてシートを作りました。柔らかく膝に優しいし、なんと言っても地元の材料なのです。実験の結果、スズメがついばんでしまうことも分かりましたので現在改良中です。

 

 「建築物は土地に対する尊敬と密接につながっていなければならない。過去、現在、未来へと続くその土地の歴史に少し手を加えるのが建築家の役割で、それを磨くも無駄にするも住人の関わり方による、つまりその建物の真の価値は時間の経過によって定まるということである。」これは隈研吾氏の言葉ですが、他のことにも通じる言葉だと感じています。

 

 最後に、有名な建築家だからさぞかし設計料が高かったのではないかと思われるかもしれませんが、当初の町予算内、つまり普通の料金であったことを申し添えます。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
掲載されている記事・写真などコンテンツの無断転載はご遠慮下さい。
高根沢町 公式ホームページはこちら

インデックスに戻る
ページの一番上へ