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この国を滅ぼしたくない

かつのりコラム

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第五十一想】
2003.11.01

 私の手元に「清原50年の歩みと翔く未来」と題された本がある。総ページ数四百九十一頁。清原地区自治会連合会と清原地区公民館が事業実施主体となり、平成十二年編纂委員会を組織し、平成十五年五月一日に発行されたものである。今、この大冊子を暇を見つけながら少しずつ読んでいる。

 

 「芳賀郡清原村」。現在の宇都宮市清原地区は五十年前、こう呼ばれていた。昭和二十八年、「町村合併促進法」が公布。いわゆる「昭和の大合併」が始まり全国の市町村再編が動き出した。栃木県でも「栃木県合併促進審議会」が発足し、昭和二十九年二月「町村合併計画第一次案」を知事に答申した。合併試案によると、清原村は祖母井町、南高根沢村、水橋村、小貝村の一町四村で合併することになっていた。しかし結果は県の試案どおりにはならなかった。試案に対して清原村は小貝村と共に反対。小貝村は市羽村と合併し現在の市貝町となり、清原村は宇都宮市への編入合併の道を選んだのである。そして残された祖母井町、南高根沢村、水橋村が合併して現在の芳賀町となっている。

 

 驚いたことに、県の合併試案発表が昭和二十九年二月、そして清原村の宇都宮市への編入合併決定が八月十日。つまりわずか半年の期間で合併がなされたのである。もっとも市貝村(当時)誕生は五月三日、芳賀町誕生は三月二十九日であるから清原村の民意集約はそれなりに時間をかけたともいえる。しかし「平成の大合併」の渦中にいる現在の私にとってこのスピードは驚き以外の何物でもない。

 

 昭和二十九年八月八日付館報号外には、①清原村のよかった点、またこれを保持するにはどうすればよいか②市に入って今後の留意点と覚悟③個人生活にどういう変化があるか④今後の村作りに一番大切なこと、の四項目について有識者の所感が述べられている。時間的には性急な合併ではあったが、やはり大きな宇都宮市に編入されることについては、村民の間にいろいろな議論のあったことがこれらの所感から十二分に推測されるのである。

 

 現在の清原地区は人口約二万二千人、合併当時の約九千八百人の倍以上となっている。内陸一の清原工業団地は製品出荷額八千億円を越え宇都宮市全体の五十八%、県全体の十一%を占める。大学、高校、スポーツ施設など、産・学・住・農・遊のバランスの取れた姿は今更説明する必要などないだろう。

 

 現在の宇都宮地域との合併議論の中で、「高根沢町は東の端、しかも川向こう」という言葉をたびたび聞く。言った方は、だから高根沢町が取り残されて廃れてしまう、ということを仰りたいのだと思う。ご心配をいただいているのだとも思う。しかし同じ地理的条件にある清原地区の現在を見る時、簡単にその言葉にうなずくことは出来ない。当時の清原地区では今よりももっと切実に「東の端であり川向こうであること」が心配されたに違いない。

 

 「宇都宮市」というネームバリューや時代の流れの中で数々の幸運に恵まれたことなど、清原地区が今日の隆盛を迎えられた理由は数々あるだろう。その中で敢えて最大の理由は、と問われれば、私は当時の清原村教育長上野一郎氏の言葉に表される考え方を挙げたい。「偏狭な視野により利己主義にならぬこと。市街地区と農業地区との相互保存を深く考究し、共栄の道を講じたい。他のみ頼って農村の自主性を失わないようにしたい。市に編入すれば何もかもよくしてくれる、という安易な気持ちを捨てむしろ、より一層の努力や奉仕の覚悟を持ちたい」。

 

 この言葉の中には、今我々が創り上げようとしている「自治」の心が流れている。五十年後の今でも通用する、否、五十年後の今もっとも必要とされている事を見事に喝破しているのである。

 

 そうなのだ。清原地区が「宇都宮市」という名を生かしきることが出来たのも、数々の幸運を手繰り寄せる事が出来たのも、この精神に拠る。そしてその精神は現在も尽きることなく流れ、「清原50年の歩みと翔く未来」という大冊子を自らの力で世に送り出したのである。

 

 「大きくしながら小さくする」。この考え方の原型をこの本は教えてくれていると思えてならない。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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