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高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

夢だより 風だより【第三十五想】
2002.05.01

 料簡(りょうけん)という言葉はもう死語に近いのだろうか。かつて祖父は、「料簡違い」などという言葉をよく口にしていた。その言葉の意味するところが、道理にはずれている行いを指していることを幼心にぼんやりと覚えている。

 

 そういえば約20年前に亡くなった落語家林家彦六師匠には、「料簡」にまつわる逸話が多く残っている。

 

 彦六師匠は寄席に通うために地下鉄の定期券を持っていた。ある時、定期券を持っている彦六師匠が切符を買うのを見た弟子が言った。「師匠、定期でいいんですよ」。師匠が答えた。「定期は寄席へ通うためのものだ。だから安くなっている。寄席へ行かないのに定期を使うなんて、私の料簡が許さない」。

 

 生涯、棟割り長屋での生活を貫いたのも、「正蔵」の名を義理堅く三平家に返したのも、寄席芸に生きる人間の料簡だったのだろう。岡本綺堂の作品を演ずるときにもその都度、出版社への挨拶を欠かさなかったそうである。「一度承知したものは、おやりになるたびに挨拶をいただかなくても」「いえ、そういうものではございません」。この堅苦しいまでの律儀さに懐かしさを感じるのは何故なのだろうか。

 

 「粗にして野だが卑ではない」は城山三郎の小説の題名だが、ここに描かれた石田禮助の生涯にも同じ感慨を抱く。国鉄総裁就任の挨拶にはじめて国会へ出た石田は、背をまっすぐに伸ばし、代議士たちを見下ろすようにして「諸君」と話しかけた。「先生方」ではない。「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。丁寧な言葉を使おうと思っても生まれつき出来ない。無理に使うと、マンキー(モンキー)が裃(かみしも)を着たようなおかしなことになる。無礼なことがあればよろしくお許し願いたい」。石田は最後まで勲一等の親授を断りつづけ(つまりマンキーが勲章をぶら下げても意味がないからという理由で)、三井物産の社長から就任した国鉄総裁の職は社会へのご恩返しだと、その給料もすべて返上したのであった。

 

 私たちは料簡を無くしてしまったのか。自然に対して、子孫に対して。お金がたくさんあり、たくさん物を買い、たくさん捨てることが豊かなことだなんて。地球温暖化の影響なのか季節の歯車がずれていることにこんなにも鈍感でいいのか。南極の氷は溶け、上空のオゾン層は破壊されつづけている。国会議員は資金集めに躍起になり(金のない辛さは身に沁みているが)、高級官僚は天下り先の高給と退職金を当たり前と考えているが、子や孫の代のことを忘れて、今ある環境を便利さのために壊しつづけている我々に、今の資源を食い尽くそうとしている我々に、そのことを批判する資格があるのだろうか。

 

 「月にむら雲、花に風」ならぬ春の嵐の影響か、今月号は激しい書き方になってしまったようだ。彦六師匠の声が聞こえてくる。「そいつはお前、なんだよ、料簡違いというもんじゃないか、悪い料簡を起こしちゃあいけないよ、料簡強くなくっちゃあ・・・」。

 

 最後に彦六師匠の気になる言葉を。「子どもの頃、寄席でおもしろいと喜んで聞いた人の芸はこの世界に入ったら残らずいけないほうでしたね。で、あんまりうけないで、すうっと終わったりする人の中に素晴らしい人がいましてね。芸ってものはヤッカイなもんですね」。

 

 「芸」を「町政」に置き換えてみる。私は顔面蒼くなるばかりである。

■こちらのコラムに関して

こちらのコラムは、高橋かつのりが高根沢町長在任時、高根沢町の広報誌『広報たかねざわ』で執筆していたコラム『夢だより 風だより』を、高根沢町の許可を得て転載しております。
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