• フォントサイズ
  • 中
  • 大

高橋かつのりが自身の考えや想いを綴るコラム『夢だより 風だより』

春三月は自分にとって特に印象深い月である
2014.03.26

春三月は自分にとって特に印象深い月である。進学、就職という節目の月であるからだ。この季節になると、過ぎし人生の断片が想い出される。

 

 高校二年の時、我が家は経済危機に陥った。高校の学費と交通費を稼ぐべく、地元の寿司屋で自分はアルバイトを始めた。夏、冬、春の休みには毎日、12月の忘年会シーズンは授業が終わってから、5月と10月11月の連休にも働いた。この期間はほぼ住み込みのような形で若い板前さんと寝起きを共にした。門前の小僧習わぬ経を読む、の如く簡単な料理を覚え包丁さばきもうまくなった。もう時効だから告白するが、酒やタバコを覚えたのもこの頃だった。

 

 そうやって稼ぎながら、大学受験料と交通費、初年度納入金を確保し、無事宇都宮東高校を卒業した。十分な仕送りを期待できない自分は当然に授業料の安い国立大学志望だった。そして私立は授業料の安い明治大学。当時はまだ国立一期校二期校制度。受験結果は一期校に落ち、二期校と明治に合格した。担任の先生に報告と相談に行くと、迷わず明治に行けとの指導だった。生徒の性格を考えて、苦労はあるだろうが大海に漕ぎ出せとの判断だったのだと思う。

 

 大学生活は決して褒められたものではなかった。雄弁部に所属して友の有り難さや人間関係の機微を学ぶ一方、家庭教師を二軒、江戸川の堤防工事、資産家の屋敷の草刈り、本郷にあった花器茶器専門店、果ては沖縄県宮古島での3ヶ月間に渡るサトウキビ狩りなど、実にいろいろなことをやった5年間だった(4年では卒業できなかった)。そんな日々を苦労とも感じずに生きられたのは、これはもう周りの方に恵まれ可愛がっていただいたということに尽きると思う。宮古島では作業しに行った畑の持ち主である下地町(当時。現在は宮古市)の収入役さんから「うちの婿にならないか」と言われ、本郷の老舗花器茶器専門店の85歳になるご主人からは「うちの番頭にならないか」と誘われた。雄弁部の一年後輩で現在は明治大学政治経済学部の教授となっている小西徳應君のアパートには、金がなくなると飯を食わせろと言って押しかけ、飢えを凌がせてもらった。顎の骨がクッキリと浮かび上がり、目だけがぎらぎらしていた。

 

 そんなことで成績も悪くしかも一留という悪条件の身では、一般企業が受け入れてくれる訳がない。そこで実力一本で勝負できる新聞社に狙いを定めたまではよかったがすべて不合格。そんな時、昭和52年に真岡市長から参議院議員になられていた岩崎純三先生の事務所から秘書にならないかというお誘いをいただいた。今考えれば、父が息子の将来を慮って、密かに友人であった岩崎先生に頼んでくれたのだと容易に想像がつくが、当時は何せ世間知らず。「ジャーナリストはペンの力で世直しをするが、政治家の秘書も仕える先生を通して世直しができる」などという理屈にもならない屁理屈で自分を合理化して、昭和56年4月参議院議員岩崎純三先生の秘書となったのだった。

 

 あれから33年の月日が流れた。恥ずかしきことのみ多かりき歩みだったが、これだけは胸を張って言える。常に一生懸命、そして一緒懸命であったと。

インデックスに戻る
ページの一番上へ